第60回「双子のようなペンギン」《地》
評価について
本選句欄は、以下のような評価をとっています。
「並選」…推敲することで「人」以上になる可能性がある句。
「ハシ坊」…ハシ坊くんと一緒に学ぶ。
特に「ハシ坊」の欄では、一句一句にアドバイスを付けております。それらのアドバイスは、初心者から中級者以上まで様々なレベルにわたります。自分の句の評価のみに一喜一憂せず、「ハシ坊」に取り上げられた他者の句の中にこそ、様々な学びがあることを心に留めてください。ここを丁寧に読むことで、学びが十倍になります。
「並選」については、ご自身の力で最後の推敲をしてください。どこかに「人」にランクアップできない理由があります。それを自分の力で見つけ出し、どうすればよいかを考える。それが最も重要な学びです。
安易に添削を求めるだけでは、地力は身につきません。己の頭で考える習慣をつけること。そのためにも「ハシ坊」に掲載される句を我が事として、真摯に読んでいただければと願います。
地
第60回
ペンギンショー兄は夕焼だけを見て
きざお
楽しくて可愛い「ペンギンショー」なのに、なぜか「夕焼」だけを見ていた「兄」の横顔が、記憶に鮮明に残っているのでしょう。
年の離れた兄との、幼い頃の記憶だろうと想像しましたが、この句も深読みしようとすればするほど、さまざまな人生のドラマが立ち上ってきそうです。「夕焼」は、人々の追憶を揺さぶる季語なのかもしれません。

春の水族館すれ違ったのは父か
うからうから
「春の水族館」という場面設定。「春」という季語は、さまざまな生き物が生まれてくる明るさを連想させます。そんな水族館で、ふと「すれ違った」人物。まさか「父か」と。生きている父ならば、孤独、再就職、まさかの老いらくの恋等々。すでに亡くなっている父ならば……と、ここからの読みは複雑に広がっていきます。

冷房の音ペンギンの腹汚れ
板柿せっか
ペンギンたちも、おいそれと舎外に出られないほどの猛暑。生臭いペンギン舎に入れば、しっかりと冷房も利いています。ヨチヨチと舎内を歩くペンギンたち。その「腹」の汚れに目がいくのが俳人の観察眼。その汚れの哀れに「冷房の音」が重なっていきます。

ペンギンはほんとは飛べる無職の春
央泉
知ってるかい、「ペンギンはほんとは飛べる」んだよ。だって、ちょっと不格好だけど羽があるし、数える時も「一羽、二羽」と数えるだろ。ペンギンだって、飛ぶ気になれば飛べるんだよ! と、己を励ます「無職の春」なのであります。

日本にペンギンのゐる残暑かな
中岡秀次
動物園に行けばペンギンはいるわけで、わざわざ今更「日本にペンギンのゐる」とまで書く必要はなかろうとも思うのですが、下五「残暑かな」という季語+詠嘆こそが、作者の表現したい眼目。うっかり外に出ると、熱中症で命の危機に遭遇しそうな昨今の「日本」。こんな国に飼われるペンギンの哀れさへの詠嘆であり、こんな気候の中で生きるしかない我々への乾いた自嘲でもあります。

八月のペンギン黙祷の角度
鰯山陽大
群れの中のペンギンたちは、静かに項垂れているようにも見えます。その垂れた頭の「角度」から「黙祷」という言葉が浮かんできたのでしょう。生きていくとは、項垂れて立ち尽くすことかもしれない。そんな感慨を引き出してくるのが、「八月」という季語の力による寓意なのかもしれません。

夏空やペンギンは垂直に啼く
雨野理多
「夏空や」と詠嘆すると、読み手の意識も自然に空を見上げます。その効果を踏まえた上で、「ペンギンは垂直に啼く」と畳みかける中七下五。確かに、ペンギンたちは上を向いて、喉を伸ばすように遠吠えみたいな声を出すなあと納得します。最後に、この文字の「啼く」を置いたことで、独特の吠えるような声が読者の耳奥に残ります。

水槽は柩だ水くらげ溶けた
天六寿(てんむす)
言われてみれば、「水槽は柩だ」と納得します。例えば、夜店で掬ってきた金魚はすぐに水槽の中で死ぬし、長く飼ってきた目高だってやがては死んでいきます。が、後半の措辞「水くらげ」で水族館の大きな水槽が出現し、更に「溶けた」の一語に驚きました。
調べてみると、くらげは90%以上が水分で、ほとんどが死ぬと溶けて消えてしまうのだそうです。死んだ海月の溶けた水を湛えた、何もない水槽。切な過ぎてゾワゾワしてしまうのは、口語の淡々と畳みかける口調の効果でもあるのでしょう。

ペンギンの突つ立つ秤文化の日
翡翠工房
「ペンギンの突つ立つ」とは、氷原の群れの一羽一羽が風に抗うように突っ立っている光景を思いましたが、「秤」の一語で一気に動物園にワープさせられました。
ペンギンの体重を一羽ずつ量る飼育員。じっと大人しく突っ立っているであろうペンギン。穏やかで平和な「文化の日」でありつつ、微量の切なさや皮肉までもが読み取れるのは、この季語の力というものでありましょう。

朝星やバケツ二十個分の鰯
山城道霞
朝という時間帯の中でも、消え残る未明の星。「朝星や」という詠嘆から始まる語順も魅力です。「バケツ二十個分」という詩的単位が、映像をありありと喚起します。最後に出現する季語「鰯」の鮮度も見えてくるような一句です。

