第47回 俳句deしりとり〈序〉|「いづ」④

始めに
出題の句からしりとりの要領で俳句をつくる尻二字しりとり、はじまりはじまり。


第47回の出題
兼題俳句
ガヤ島のホテル部屋より泳ぎ出づ 伊藤 恵美
兼題俳句の最後の二音「いづ」の音で始まる俳句を作りましょう。
※「いづ」という音から始まれば、平仮名・片仮名・漢字など、表記は問いません。
いずい歯のグラグラしとる隙間風
留辺蘂子
いずい歯をぎりりと抜かれ冬の入り
三日月なな子
いずいなや。セーターの袖なじょすっぺ
たきるか
いづい首ちょびっともちょこいセーター来
糸圭しけ
いづくないやうにがつちり藪巻きぬ
帝菜
ちなみに「なじょすっぺ」は「どうしよう」、「もちょこい」は「くすぐったい」、だそうです。ぼかぁラピュタで石版読んでるムスカ大佐の気分ですよ。(句が)読める、読めるぞ!


いづづがねおおぎぐなっでお元日
水きんくⅡ
いづ嫁っこさもらうんだ蜜柑剝く
うーみん
……素朴な疑問なんだけど、「いつつ」が「いづづ」になったり「いつ」が「いづ」になったり、濁音化するのを「方言」って呼ぶのは正しいんだろうか。さっきの「なじょすっぺ」や「もちょこい」は間違いなく方言だと思うけど。濁音化するのはあくまで発音の問題であって、実は方言とは違う事象なんだろうか。それとも発音の変化も「方言」の一環なのかなあ。教えて、言語学有識者!


飯寿司のみ年始の客は箸伸ばし
森ともよ
飯鮓自慢するもされるも息白し
立田鯊夢
飯詰籠の児はまるまると春隣
レオノーレ・オオヤブ
《レオノーレ・オオヤブ》さんの「飯詰籠(いづめこ)」は道具の名であると同時に、かつての生活風習(?)を指す意味もあるようです。飯詰籠は本来はお弁当などを保温するための藁で編んだ籠なのですが、農作業をしている間に赤ちゃんを入れておいたりもしたそうです。赤ちゃんがいるからといって農作業を休むわけにもいかないし、寒さだけじゃなく動物や虫から守りつつ近くに子どもを置いておくにはちょうど良かった、ってことなのかな。祖母が生きてた頃、おなじような過ごし方してたって昔話を懐かしく思いだしております。しんみり。


飯綱使いの呪詛箱庭崩壊す
天六寿(てんむす)
飯綱使ひは狐火を象嵌す
岡根喬平


飯綱落変移抜刀霞斬
星埜黴円(い「づ」にこだわった)
……ところで、霞斬の「霞」は季語にはならないからな!?(笑)


胃ずきずき痛めど恋と熱燗と
泉楽人
胃づぎゅづぎゅ忘年会の紹興酒
蜘蛛野澄香


居づらいと尺取虫はまた擬態
湯屋ゆうや
飯綱使ひは狐火を象嵌す
岡根喬平
居づらいな僕だけ制服の遠足
多数野麻仁男
居づらいニャ人の足々炬燵猫
志氣乃里己
居づらくてボックス席の缶ビール
朝野あん
居辛いわ鳥交る木の待ち合わせ
紅紫あやめ
居づらくて去りがたき家巣立鳥
えみり
居づらいまま二十数年寒椿
ほうちゃん
居づらくて酔い覚ますふり忘年会
はしま
居づらさや何処へ行っても薔薇の園
飯島寛堂
居辛さや雪を見ている胡蝶蘭
馬場めばる


いづもてふ猫の柩や飛花落花
ひな野そばの芽


泉とは子の成長のごとく湧く
梅野めい
泉滾々砂地が呼吸するやうに
夜汽車
泉こぽこぅぽ淋しきみづ頻り
梵庸子
いづみ描く色は泉に映るいろ
二城ひかる
泉汲む神社の奥の列に風
蕃茄
泉澄む紙垂の揺れたる御神木
茂木 りん
泉の森やまた一つ墓じまひ
加里かり子
それぞれ上手い句としてピックアップしましたが、描き方にはそれぞれ特色があるのが興味深い。
《梅野めい》さん、《夜汽車》さん、《梵庸子》さんは泉そのものに焦点を絞って十七音を紡いでいます。比喩による健やかさ、水底に不意にわきあがる砂の描写、オノマトペ「こぽこぅぽ」で表現される微妙な不規則性、どれも秀逸です。
《二城ひかる》さん、《蕃茄》さん、《茂木 りん》さんは第一グループとくらべてより広い画角を取っています。泉とその周辺に存在するものを含めて描いたグループ。その中でもグラデーションのように要素の量に差はあり、二城ひかるさんが泉の静的な描写に寄っているのに対し、《蕃茄》さんと《茂木 りん》さんは神社、風、紙垂といったものを登場させることで動的な十七音の世界を形作っています。より立体的な空間へと意識が及んでいますね。
《加里かり子》さんはそこからさらに変化し、取り合わせの距離が大きく開きます。上五で泉をその懐に抱えた「森」を詠嘆し、中七下五では人生という大きなフィールドにおけるイベントをぽつりと展開させました。それによって泉の涼感が心理的な要素へと転換されていきます。「また」の一語は安堵のようでもあり、諦めのようでもあり……後味の悪くない寂寥感が良いねえ。


第49回の出題
泉までならご一緒もできますが
平本魚水
泉シリーズを紹介する流れから、さらに一ひねり。いったいなんでこんな会話が交わされているのか。会話しているのは何者なのか。謎の分量が大きいのですが、それでいて奇をてらった一発ネタに堕していないのは一語一語の繊細なバランス感覚のおかげです。「泉」というゴールをまず示し、「まで」で現在位置からの物理的隔たりを示し、「なら」の条件付けによって第三者との奇妙な距離感を示します。
泉 ←←←←←←← 作者 )だれか
状況を記号的に表現するならこんな感じ。伝わる?
七五五の変則的な形ですが、最初の七音が実に巧みに物理的・心理的な構造を作り上げています。続く「ご一緒」、「も」、「できますが」もそれぞれ絶妙ですねえ。相手への礼節と慮りを示しつつ、その距離は決して近くない。この隔たりが現代的な感覚として読者の共感を呼び起こしつつ、「泉」の涼感とイメージが重なっていくのです。
山の道なのか、森の道なのか、それとも野に湧く泉へ続く道か。泉までへの道には少しばかり涼気を増した風も流れていることでしょう。向かう先には泉が待っているという期待が一層、「泉」という季語を煌めかせて一句の主役たらしめているのです。
ということで、最後の二音は「すが」でございます。
しりとりで遊びながら俳句の筋肉鍛えていきましょう!
みなさんの明日の句作が楽しいものでありますように! ごきげんよう!



