【第3回 ドリルde俳句】②

始めに
出題の空白に入る言葉を考えるドリルde俳句。出題の空白を埋めてどんな一句が仕上がったのか、【第3回 結果発表①】に続き、皆さんからの回答を紹介していきます。


第3回の出題
今回の出題は真ん中がまるまる空いている分、自由度が高いです。ポイントになるのは上五の最後。一音分の空白をどう扱うかで展開ががらりと変わります。
両の手へ湯気立つ子猫クリスマス
小野睦
「両の手へ刺さる点滴クリスマス でんでん琴女」は医療の現場。ずっと刺したままの状況なら「両の手に」だけど、「へ」の助詞を考えると「今まさに刺す瞬間」あるいは「刺した直後」くらいの時間軸か。




両の手や試験の後のクリスマス
颯萬
「両の手やあわせて願うクリスマス すきやき」は同じ「や」だけど少し効用が違います。この場合の「や」は強調というよりも語調を整えるような効果。「両の手や淡雪つかみクリスマス 花弘」「両の手や仔犬だきあげクリスマス 京」も同様。語調を整える「や」の場合、他の助詞に置き換え可能な場合が多い。例えば《すきやき》さんの句なら「を」、《花弘》さん、《京》さんの句なら「で」でも成立しそう。




両の手はクリームまみれクリスマス
ツユマメ
「は」は他と区別する効果を持つ助詞。他は無事だけど「両の手は」クリームまみれ。同じ状況になっていないものが存在していることを示します。例えば、顔はクリームついてないけれど、とか。フォークはクリームまみれじゃないのに、とか。嗚呼、育児とはなんと思い通りにならないことか……。大変だけど「両の手は万歳し寝るクリスマス 二見歌蓮(フタミカレン)」なんて句を見ると可愛い。
「両の手はポケットに待つクリスマス 海峯企鵝」「両の手はまだ空っぽでクリスマス 玉響雷子」。「待つ」「まだ」と思わせぶりですね。さあ、手に収まるべきはなにかしら?「両の手は指輪の在り処クリスマス りょうまる」! 指輪でございます。渡してもらえた! 受け取ってもらえた! 思いは最高潮!
「両の手はあなたの背中クリスマス 沙那夏」。二人は抱き合って幸せなキスをしてハッピーエンド。いい話ですね。


勢いで幸せ方向に書いたけれども、読みようによっては結婚寸前だった男女が破局して指輪を突き返された的な読みも成立しちゃうのかしら。歪んでるって? ……返す言葉もございません。
正人の茶番な妄想劇はさておいて。助詞「は」は他と区別する効果を持つがために、「手」への注目を強くします。
「両の手は祈りのかたちクリスマス 彩汀」「両の手は脆き方舟クリスマス にゃん」、クリスマスと祈りのイメージ。そして祈る手の形は方舟の形でもある。手の形に着目しつつ、「クリスマス」という季語の本意を活かしています。
「両の手は音符を追いぬクリスマス 喜祝音」は奏者? それとも演奏を導く指揮者? 「両の手は指揮者の翼クリスマス 播磨陽子」は「翼」が詩の言葉として美しい。高らかに両手を広げた指揮者のシルエットもまた美しい。




両の手に復習ノートクリスマス
Q&A
この場合の「に」は場所を示す助詞。両の手という場所にノートを持っているわけですね。クリスマスでも勉強頑張るなんてえらいぞ‼︎
「両の手に大きなお皿クリスマス かねつき走流」「両の手にバイトの配膳クリスマス 迫久鯨」は労働。他の助詞にも登場しているけど、クリスマスと料理が結びつく人は多いみたい。「両の手に浮く唐揚げ粉クリスマス 武井かま猫」は具体的な料理名も。揚げるよね、大量の唐揚げ。
「両の手にリュウグウの砂クリスマス 広島 しずか80歳」は、一見浦島太郎かと思いきや、宇宙探査から地球に帰ってきた「はやぶさ2」。結構な量のサンプルが回収できたとか。プロジェクトスタッフの皆様に拍手‼︎


手に持つ系では「両の手にマジックのたねクリスマス 木染湧水」と手の内側にこっそり収めて仕込んでおくタイプもあれば「両の手に余るピカチュークリスマス 西村小市」のようにどっさり系まで。「両の手にアマビエあまえびクリスマス あすか風」は「アマビエ」が二つ……かと思いきや片方は「あまえび」。紛らわしいわ!「両の手に家藤正人クリスマス けーい〇」にはひたすら困惑。手乗りサイズ……? 僕は実は最低三人存在している…?


「両の手に包むほつぺたクリスマス まあぶる」「両の手に火照る子の頬クリスマス 小川都」、手で包むものといえば~と発想して頬に行き着いた人たちも。「両の手に初孫の頬クリスマス 日記」は「初」の字に喜びと寿ぎの気持ちが見える。「両の手に残る香油やクリスマス くま鶉」、キリスト教家庭ならこんな誕生の場面もあるのかも。油の手触りだけでなく、残る香りまで感じられて上手い。


「両の手にゃ夢も未来もクリスマス あみま」は変わり種だけど、分類としては助詞「に」。「には」を短縮して一音の「にゃ」になってます。未来があるともないとも言い切ってはいないけれど、捨てばちな言い方が言外に「ない」と言ってるようでわびしい。
「両の手にヌンチャク暴るクリスマス ふるてい」、ブルース・リーに憧れた人が一度は通る道。振り回したくなるよね。しかし「に」は場所を示すため、このままだと手の中で暴れててうまく握れてないみたいになる。受け止められないヌンチャクってかっこ悪いんだよなあ……。ガンガン振り回す感じなら「の」くらいになるか。


両の手のシャボンの泡やクリスマス
リキさん
「の」は用途の幅広い助詞。この場合は上の言葉が下の言葉に繋がっていく、意味を限定するような効果を持ってます。様々なシャボンがある中で「両の手のシャボン」、と対象を絞り込むような印象ですね。コロナ禍の2020年は、念入りな手洗いを忘れない。
「両の手のベルの音清しクリスマス のど飴」は中七を形容詞で締める形。言い切りの形が気持ち良い。ベルの音は「両の手のリンロンランロンクリスマス 満る」なんて擬音で表現することもできる。ラ行の音の繰り返しが楽しい。
「両の手の結露に手形クリスマス ⑦パパ」と「の」で一度繋いだあとで別の助詞を登場させたり、「両の手の入る靴下クリスマス すみれ」と間に動詞を入れ込んだり、多種多様な展開をできるのが面白い。


どの助詞でもそうなんだけど、不穏な方向に舵を切った人が一定数いる。「両の手の手錠解かれてクリスマス そうり」、ほら出た逮捕‼︎ でも解かれている状況なら保釈? 恩赦? 少し希望がある。繋がれてても「両の手の鎖に温度クリスマス 池之端モルト」なんて語れる詩心があるならちょっと素敵。


でもまだ手があるうちは幸せかもしれない。「両の手のなき難民のクリスマス ひでやん」なんて一層切ない。戦災だろうか。「両の手の機関銃捨てクリスマス 林瑠璃」も戦争を思わせる。「クリスマス」という季語が持つ幸福や祈りの要素が逆に、対極にある現実の悲惨をも呼び起こす力を持っているのかもしれない。「両の手の無き身にも幸クリスマス 蒼來応來」「両の手の自由尊しクリスマス 千の浪」、不穏や悲惨のあとに見ると一層沁みる。クリスマスっていいね。



