ドリルde俳句の結果発表

【第5回 ドリルde俳句】②

ドリルde俳句結果発表!

始めに

皆さんこんにちは。ドリルde俳句のお時間です。
出題の空白に入る言葉を考えるドリルde俳句。出題の空白を埋めてどんな一句が仕上がったのか、皆さんからの回答を紹介していきます。
“良き”

第5回の出題

馬は□□ 牛は□□□□□ 耕しぬ

「馬」と「牛」、種類は違うけど、どちらも農耕に関係した動物であるという共通点。それぞれに区別の助詞「は」をつけてどんな差別化を行っていくか。発想のパターンを見ていきましょう。

【第5回 結果発表①】では、耕す場所・対象に注目した回答を主に紹介してきました。
お次は、耕す側である馬牛に注目した回答群です。

“激励”

 

 

馬は跳ね牛はのたりと耕しぬ

清雅

 

馬は跳ね牛はゆっくり耕しぬ

素人(そじん)

 

はねて牛はのっそり耕しぬ

みづちみわ

躍動する馬と、ゆったりとした牛。動作の速度や印象によって対比を成立させます。「馬は跳ね牛はぶつぶつ耕しぬ ともっち」はオノマトペによって速度ではなく、牛の勤労意欲(?)を表現。「馬は跳ね牛は踏み締め耕しぬ ウキナガ」はどちらも動詞での対比。複合動詞「踏み締め」の重い力強さ。

「跳ねる」の弾む動きに対して、「馬はしり牛はゆつくり耕しぬ 天陽ゆう」は直線的な「はしる」。速度の印象を強く与える。「馬は駆け牛はゆたりと耕しぬ 山口ながれ」「馬は駆け牛はゆつくり耕しぬ 蓼科 嘉」の「駆ける」も同様。その他の動詞には「馬はしゃぎ牛はのんびり耕しぬ お漬物」「馬はやる牛はまたりと耕しぬ ペトロア」など。いずれも牛のスローさに対して馬は素早い。
“ポイント”
「馬」に対してストレートに形容詞を用いたのは「馬はやく牛はゆっくり耕しぬ みおつくし」「馬早し牛はのそりと耕しぬ 毒林檎」「馬は疾く牛はゆるゆる耕しぬ 小鞠」。ひらがな表記、漢字表記、漢字の違い、それぞれに味わいが変わる。「馬疾風(はやて)牛は悠悠耕しぬ かいぐりかいぐり」は風を切るほどに。堂々たる「疾風」に対応するように、牛の描写も「まったり」「ゆったり」などではなく、格調ある「悠悠」に。「馬は急き牛は悠々耕しぬ ちかひか」は同じく「悠々」が登場。一方で馬は「急き」に。単純な速度だけではなく、焦るような馬の性格・心情・状況が含まれ、対比の味わいが変わる。
“激励”

はしりはみ我は耕しぬ

黒子

 

馬は跳ね牛は食み吾は耕しぬ

香箱猫

馬と牛の対比が多かったのですが、さらに第三軸の存在を追加したパターン。自分はトラクターに乗ってて、みたいな光景であれば現在の状況にはむしろ即しているとも言えそう。「馬は駈け牛は啼き吾は耕しぬ 三千里ねおじむ」も広々とした牧場のイメージ。鳴声が伸びやかに空間へ広がる。
第三の登場人物は「我」であることが多いようです。人間が頑張って耕す一方、馬牛はなにをしているのかというと、寝ている場合が多いみたい。「馬は跳ね牛は寝吾は耕しぬ まあぶる」「馬は往ぬ牛は寝人は耕しぬ いかちゃん」。寝るのは牛の方ばかりかと思いきや、「馬は寝て牛は逃げ吾耕しぬ へなけん」もありました。牛にまで逃げられて、孤軍奮闘の「吾」。「馬はげみ牛はげみ吾も耕しぬ 風花まゆみ」は助詞「は」を動詞の一部に変換する小技も併用。孤独ではない農耕。団結力が違うぜ。「馬は引き牛は産み吾は耕しぬ 蒼求」、お産にかかっていて牛は不在。馬の「引き」がやや意味を計りづらい。引退した? 農具を引っ張ってくれてる?? 「馬は放る牛は臥す吾は耕しぬ 斉藤立夏」は動作からそれぞれの表情が見えて上手い。
“とてもいい”
「放る(ひる)」はひりだすこと。尿か、糞か、惜しげもなく放つ馬の姿がリアル。「馬は胸牛は背中で耕しぬ むゆき」は手段を表す助詞「で」がお手柄。農具が掛けられ、力が込められている部位が映像的に描けています。「馬は脳牛は力で耕しぬ カモミール」も「なにをもって耕しているのか」という発想は同じですが、手段として挙げられている内容が抽象に寄っているため、比較するとひと味落ちます。
“良き”
馬は駈け牛は啼き吾は耕しぬ
今回取り扱っているこの対比の型、ここまでを読んでなんとなく感覚は掴めてきたでしょうか?
イメージとしては、天秤を思い浮かべてください。今回の場合は「馬」が左側の秤、「牛」が右側の秤。両方の秤に、重さが釣り合うように言葉の質量を乗せるのです。(「我」シリーズは例外的に三つめの秤がある状態ですが。)

秤に乗せた言葉の質量の釣り合いが取れているか、取れていないか。今まで紹介した例は、多少の差はあれど各々が判断しやすかったのではないかと思います。ですが、秤に乗せる言葉がさらに抽象的になっていくと、一読、バランスが取れているのか判断に迷う場面も出てきます。

例えばこんな句はいかが。
“ポイント”

馬はおん牛はそわかを耕しぬ

月青草青

真言からの発想。うーーーん、不思議な味わい! 意味はわからないけど、似合う……気がする⁉︎ 馬も牛も、それぞれが神仏との結びつきを語られるケースはありますが、そこからの発想でしょうか。「馬は神牛は仏ぞ耕しぬ 打楽器」「馬は神牛は仏似耕しぬ 清二」は神と仏をそれぞれの秤に乗せる意図がわかりやすい。後者は「似」の一工夫によって、表情を思い浮かべる楽しさを得ました。「馬は安産牛は学力耕しぬ ごまお」は祀ってる神仏の御利益でしょうか。……が、「馬は知恵牛はいのちを耕しぬ あさぎいろ」では逆になってる。真実はどっち??

馬は叡知牛は感性耕しぬ 巴里乃嬬」「馬は知恵牛は論理を耕しぬ 碧西里」「馬は頭牛は心を耕しぬ 鈴白菜実」、三つの例を見ると「馬は知恵」派が一歩リード? ただ、牛の方は評価が一定せず……。感性とは……? 論理とは……?? 心とは……??? いったい、我々はなんのために存在しているのか……????
“良き”
思考が混乱してしまいそうなので、一度忘れましょう。

馬は文学牛は哲学耕しぬ 河合郁」……うん、こちらの方が納得しやすい。「学問」の括りを両方の秤に乗せることで、読者の脳が混乱せずにすみます。対比の論理を理解しやすい。「馬は欲牛は食欲耕しぬ 深山紫」も同様に、「欲」という括りを秤に乗せてくれました。欲は身近で理解しやすいですね。牛が「食欲」だけに関連付けられたのに対し、馬はあらゆる「欲」の総大将みたいな風格。ちょっとこわい。
“参った”
「馬」が左側の秤、「牛」が右側の秤。両方の秤に、重さが釣り合うように言葉の質量を乗せる
このまま終わっていくとさすがに不安な心地になるので、最後に今回の正人一推しの句を紹介してから終わりにいたしましょう。

正人の一推し!

馬は絵馬屏風で耕しぬ

新陽

実在の馬牛ではなく、絵の中の存在にした発想が技あり。浮世絵、あるいは日本画風の筆致まで想像できます。現在の「耕し」の季語の現場では、馬と牛の力を借りる場面は減ったかもしれませんが、それぞれの描かれた世界の中では今でも、春の耕しにその力を奮っている彼ら。「絵に描いた季語は本物の季語と呼ぶには弱いのでは」、という指摘ももちろんあろうかと思いますが、絵馬の中で、屏風の中で、それぞれに春を躍動する馬と牛の表情を思えば、「春」らしい喜びが十分に感じられる一句に仕上がったのではないかと考えます。

最後にもう一度、一言で対比の型の心得を要約して終わりにいたしましょう。

「天秤の両秤」

ドリルde俳句がみなさんの明日の句作のお役に立てれば幸いです。ごきげんよう!
“とてもいい”