第26回「小雨の銀座通り」《地》
評価について
本選句欄は、以下のような評価をとっています。
「並選」…推敲することで「人」以上になる可能性がある句。
「ハシ坊」…ハシ坊くんと一緒に学ぶ。
特に「ハシ坊」の欄では、一句一句にアドバイスを付けております。それらのアドバイスは、初心者から中級者以上まで様々なレベルにわたります。自分の句の評価のみに一喜一憂せず、「ハシ坊」に取り上げられた他者の句の中にこそ、様々な学びがあることを心に留めてください。ここを丁寧に読むことで、学びが十倍になります。
「並選」については、ご自身の力で最後の推敲をしてください。どこかに「人」にランクアップできない理由があります。それを自分の力で見つけ出し、どうすればよいかを考える。それが最も重要な学びです。
安易に添削を求めるだけでは、地力は身につきません。己の頭で考える習慣をつけること。そのためにも「ハシ坊」に掲載される句を我が事として、真摯に読んでいただければと願います。

地
第26回
悴みやマネキンの手がいつも綺麗
髙田祥聖
嗚呼、なんと悴む日なんだろうと、両手をこすり合わせているのでしょう。信号待ちする都会の交差点を思わせるのが、中七下五の展開。ショーウインドーの「マネキン」の手は、長く細く美しく「いつも綺麗」で、悴むことはありません。
悴まない人工物との対比を狙う句は様々ありますが、中七下五の呟きが自然で、ストンと心に入ってきた作品です。
ピカチュウがぐつたりハロウィンの終電
はんばぁぐ
前半「ピカチュウがぐつたり」で、ゲームやアニメの世界の話かと思わせ、後半「ハロウィンの終電」で場面を切り替える。この技が成功しました。
最近よく「ハロウィン」はもう季語として使っていいんですか? という類の質問を受けるのですが、歳時記に載っている、載っていないの判断ではなく、作者自身が季語としての強い意識をもって使いこなすか否か。問題はそこだと思います。
少なくともこの句は、「ハロウィン」という季語が、主役として立っていて、遊び過ぎてぐったりしている「終電」の様子が、ありありと再生されています。「ピカチュウ」と「ハロウィン」の取り合わせも絶妙。そこにいる人物の年齢、嗜好、はしゃぎぶり等も、伝わってくる選択でした。
クレーンを寒夜の幹として東京
ツナ好
壊されて建てられてを繰り返す都会という人工の生き物。林立するビル街にそびえる巨大な「クレーン」を、「寒夜の幹」と象徴しました。この幹から、様々な枝葉が広がっていく。それが、人工物としての「東京」なのだよ、と。
「として」のような使い方は、一つ間違えると説明的になりますが、この句の場合は「東京」と下五を名詞止めにし、着地の切れによって説明臭を払拭しています。この判断も褒めたいですね。
タクシーをカトレア降りてくる銀座
深山むらさき
今回、タクシーを降りてくる人を描いた句も沢山ありましたが、「カトレア降りてくる」と思い切った処理をしたことが成功しました。
タクシーのドアが開き、大きな「カトレア」の花束が出現する。どんな人がその花束を抱いているのかは、一切語らないことで、逆に季語の現場を鮮やかに立ちあげました。
「カトレア」を人物の比喩だと読む人も当然でてきますが、季語は「カトレア」以外にありませんから、人物を想像するとしても、その手には「カトレア」の花束があると読むのが妥当。いかにも「銀座」らしい「タクシー」であり、「カトレア」であります。
木枯や燐寸の店はもう無くて
板柿せっか
いつか行ってみたいと誰かから貰い受けていたお洒落な燐寸箱か、かつて誰かと訪れたことのある店の燐寸箱か。読みは幾つかあるかと思います。前半の展開をどう想像したとしても、その「燐寸の店」はもう無いのです。店の前を通りかかったのか、人づてに「あの店は閉店したらしい」と噂に聞いたのか。
冷たい「木枯」の音に、店が無くなっているという事実が重なってくるような味わいの作品です。
ミキモトに大きな聖樹婚約す
にゃん
「ミキモト」は、東京銀座に本店を置く有名な宝飾店。「ミキモトパール」の名は世界中に知られています。
その「ミキモト」店頭には「大きな聖樹」が飾られています。指輪を探す恋人たちが見上げる大聖樹。下五「婚約す」というシンプルな着地が、清らかな聖樹の光を思わせます。「ミキモト」という固有名詞を有効に生かした一句です。
点字ブロック途切れ凩がいたい
青木りんどう
確かに、日本中の道という道に「点字ブロック」が敷かれているわけではない、という事実にハッとします。白杖の先に触れなくなった「点字ブロック」を指の感覚として捉えたのか。はたまた、視覚的にここで「途切れ」ていることに気づいたのか。
後半の「凩がいたい」の無造作に投げ出されたような言葉が、読者の心にも刺さります。
月冴ゆる映画で折れたビルがあれ
坂野ひでこ
「月」の冴え冴えと光る夜です。
この「映画」がノンフィクションの、例えば9.11のワールドトレードセンターのビルだとすると痛々し過ぎますが、怪獣映画の、例えばゴジラが壊したビルだと読めば、可笑しみのある句になります。
ほら、あのビル。さっきの映画で折れたビル。そう指さす向こうに、今宵の月は煌々と上がっていきます。
銀座の灯わたしは夜のねこぢやらし
ありあり
「銀座の灯」と、場所と光景を上五で作り、そこからの展開に独自性があります。「わたしは夜のねこぢやらし」と比喩していますが、そこには実際に猫じゃらしもあったのではないかと。
銀座にも猫じゃらしがあるんだと、気づく。その足元を眺めつつ、私はまるで「夜のねこぢやらし」みたいに、誰にも気づかれずに風の意のままに揺れているだけなのだと。「銀座」という固有名詞が、人生のさまざまな事柄を示唆しているかのようです。
匂ひなきナイフ聖菓の野を沈む
古瀬まさあき
「聖菓」つまりクリスマスケーキを切り分けていくだけのことなのに、こんなふうに美しく書けることに感嘆します。
「匂ひなきナイフ」は、美しさと神聖さを思わせます。そのナイフが、雪野のような「聖菓」に沈んでいきます。冷え冷えと美しいナイフ。鼻をくすぐる甘い香り。
切り分けると書くのではなく、「沈む」という動詞によって「聖菓」の柔らかさ、感触まで描いてしまうのですから、大したものです。