第30回「常念道祖神の桜」《地》
評価について
本選句欄は、以下のような評価をとっています。
「並選」…推敲することで「人」以上になる可能性がある句。
「ハシ坊」…ハシ坊くんと一緒に学ぶ。
特に「ハシ坊」の欄では、一句一句にアドバイスを付けております。それらのアドバイスは、初心者から中級者以上まで様々なレベルにわたります。自分の句の評価のみに一喜一憂せず、「ハシ坊」に取り上げられた他者の句の中にこそ、様々な学びがあることを心に留めてください。ここを丁寧に読むことで、学びが十倍になります。
「並選」については、ご自身の力で最後の推敲をしてください。どこかに「人」にランクアップできない理由があります。それを自分の力で見つけ出し、どうすればよいかを考える。それが最も重要な学びです。
安易に添削を求めるだけでは、地力は身につきません。己の頭で考える習慣をつけること。そのためにも「ハシ坊」に掲載される句を我が事として、真摯に読んでいただければと願います。

地
第30回
桜咲く頃と書かれたネガフィルム
野山遊
現像写真の「ネガフィルム」。デジカメが一般的になるまでは、これが主流でした。古いネガフィルムには、「桜咲く頃」と添え書きがしてあるのです。その文字を見たとたん、その時の様子がありありと浮かんできたのでしょう。
桜の実物があるわけではない場合、それを季語と認めないという主張があるのは事実です。が、作者にとってこのネガフィルムは、ある年のある桜を真空保存したもの。「桜」という季語を作者なりに表現したものとして十分味わえる、と、私は思います。
側溝をはなびら急ぐ旅じやなし
高橋寅次
「側溝をはなびら」で、意味が軽く切れます。側溝にしきりに散っていく桜のはなびら。そのさまを美しいと思い、立ち止まっているのです。「急ぐ旅」ではないのだものと。
さらに、この句の仕掛けは「急ぐ」の位置にあります。最初は、ほとんどの人が「側溝をはなびら急ぐ」と読むのではないでしょうか。花びらが次々に流れていく様子が、一瞬、脳を過るのです。そのサブリミナル効果を企んでの一句に違いありません。
一本となるまでみづの走る春
古瀬まさあき
春になると雪が解けて、山の水が走り出します。小さな流れが集まって支流となり、さらにそれらが集まって「一本」の本流となるまで「みづ」は走ります。それがまさに「春」なのだよという賛歌。当たり前といえば当たり前の事実なのに、こんなふうに言葉を紡ぐと、素敵な詩になるのですね。
囀を仰ぎパンクはそつちのけ
にゃん
「囀を仰ぎ」は、俳句においてよく出てくる場面です。が、そこからの展開が面白くてリアル。「パンク」して大変な状況なのに、車の外に出たとたん聞こえてくる「囀」に感嘆しているのです。「パンクはそつちのけ」という短いフレーズで、この場面を生き生きとありありと描いているのが、さすがです。
この後は、自分でタイヤを交換するのでしょうか。JAFが来てくれるのを待つのでしょうか。その時間もまた、降り注ぐ「囀」という季語の現場です。
水漬く子へ百足る腕桜の夜
花屋英利
上五「水漬く」とは「みずつく」と読みますが、この句の場合は「みづく」と三音で読ませるのでしょう。水にひたるの意です。
中七「百足る」は「ももだる」と読みます。十分に備わっているという意味です。
難しい言葉の意味が分かると、一句全体の意味も分かってきます。水に浸っている子は、水死した子でしょうか。水子(流産した子)と読む人もいるかもしれません。その子たちを抱いてくれる腕は十分にあるよ、と一句は囁いているのです。
下五「桜の夜」は、桜の枝枝こそがその腕であるよと語っているかのよう。水に死した子どもたちを受けとめ抱く絢爛な夜の桜。美しくて切なくて少し怖ろしい智内兄助の絵のような一句です。
落ちるまでが雨で忘れるまでが桜
ツナ好
「落ちるまでが雨」と言われると、確かに落ちた後の水滴を「雨」と意識はしないなと気づきます。「忘れるまでが桜」も、花が散ってしまうと、桜の存在が薄れていく。
こんなふうに、勝手に定義してしまうのも、詩を発生させる一つのテクニック。雨を見ると、この句を口ずさんでしまいそうです。
夜桜の青さ寂しい魚を生む
シュリ
「夜桜」を「青」と表現する句はあるかもしれません。が、そこからの展開に独自性があります。
夜の桜の青さは、水底の青を連想させます。「寂しい魚」とは、夜桜に集う人々でしょうか。一人で佇む作者自身でしょうか。「~を生む」という断定が、春の憂いを深めます。一行詩のような印象深い作品です。
花散るや水面のしわを伸ばしつつ
濃厚エッグタルト
桜の花びらが水面に散っていく句をこれまで沢山見てきましたが、「水面のしわ」を伸ばしながら散っていくという把握にお目にかかったのは始めてです。
「花散るや」とゆったり詠嘆し、その緩やかな調べのままに「水面のしわを伸ばしつつ」と詠う。俳味だけではなく、花びらと水の関係を的確に書きとめてもおります。水に散る桜を見る度に、この句を思い出しそうです。
桜東風転がりさうな道祖神
わおち
丸い形をした石が「転がりさうな」という表現はあるかと思いますが、それが「道祖神」であることが一句の味わいです。
作者のコメントには「上五は『東風吹かば』と迷いに迷った末こちらにしました」とありました。「東風吹かば」にすると、東風が吹いたら転がるという因果関係が生じます。俳句では、何が原因でどうなったという因果関係を嫌うのです。
「桜東風」の「桜」の一字の効果も大きいですね。道祖神を守るように桜の木があるのかもしれないと想像も広がります。「桜東風」を選んだのは正解ですね。
関守に花守会釈して去りぬ
葉村直
「関守」とは、関所を守る役人、関所の番人です。この一語だけで、私は江戸時代にワープしました。「入り鉄砲に出女」なんて言葉を日本史の授業で習いましたが、関守たちは江戸に入る武器と、江戸から出ていく女(特に、国元に逃げようとする大名の妻女)に注意を払いました。
ここまできてふっと思いました。「花守」という言葉はいつ頃から使われているのだろうと。調べてみましたが、よく分かりません。ある書物には「いにしえの言葉には見当たらない」との記述も。
だとすると、この「関守」と「花守」は、虚の世界で出会っているのかもしれません。時間と空間が捩れて交差する場所に、何百年も咲いている桜がある。関守の頃は若木だった桜なのでしょう。桜守は、大きな古木となった桜をしみじみと慈しんでいるに違いありません。そう思うと、この「会釈」のなんと深いことか。私にとって、溜息を禁じ得ない忘れ難い作品となりました。