写真de俳句の結果発表

第44回「京都の屋台」《地》

評価について

本選句欄は、以下のような評価をとっています。

「天」「地」「人」…将来、句集に載せる一句としてキープ。
「並選」…推敲することで「人」以上になる可能性がある句。
「ハシ坊」…ハシ坊くんと一緒に学ぶ。

特に「ハシ坊」の欄では、一句一句にアドバイスを付けております。それらのアドバイスは、初心者から中級者以上まで様々なレベルにわたります。自分の句の評価のみに一喜一憂せず、「ハシ坊」に取り上げられた他者の句の中にこそ、様々な学びがあることを心に留めてください。ここを丁寧に読むことで、学びが十倍になります。

「並選」については、ご自身の力で最後の推敲をしてください。どこかに「人」にランクアップできない理由があります。それを自分の力で見つけ出し、どうすればよいかを考えるそれが最も重要な学びです。

安易に添削を求めるだけでは、地力は身につきません己の頭で考える習慣をつけること。そのためにも「ハシ坊」に掲載される句を我が事として、真摯に読んでいただければと願います。

第44回「京都の屋台」

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緑蔭の椅子を畳みてデモに入る

池内ときこ

「緑陰の椅子」は、避暑地のデッキに置かれているような椅子を思い浮かべたのですが、後半の二つの動詞によって、印象がくっきりと変わりました。

「畳み」という動詞によって、その椅子は、携帯用の簡易なものであることが分かります。更に、緑陰はほんの一時の休憩場所。目的は「デモ」への参加だったのです。緑陰で水分補給をし汗を拭い、再びデモに加わります。横断幕を手にしたメーデーでしょうか。原発や戦争に反対するプラカードを手にした人々かもしれません。長く長く続くデモ隊の列。

さっきまで「緑陰の椅子」が置かれていた辺りには、夏の木洩れ日がきらきらと溢れているばかりです。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

夕焼けへ水ヨーヨーをぱいんぱいん

里すみか

夕焼けの空へ向かって、水ヨーヨーを打ちます。その「ぱいんぱいん」という音のオノマトペが秀逸です。ゴム風船の薄い感じや、水の量までもが想像できそうなリアリティ。オノマトペの可能性を思わせる作品です。「夕焼けへ」の「へ」という助詞が、子供の視線を思わせ、その空へ向かって打っている様子までもが、ありありと再生されます。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

雨乞や黒き水ヨーヨーも夜

ぞんぬ

一読、〈月赤し雨乞踊見に行かん 正岡子規〉を思い出しました。この頃の「雨乞踊」なるものが、決まった時期に行われたのか、突発的に催されるのかは分かりませんが、赤く禍々しい月の色が強く印象に残っている一句です。

さて、掲出句です。「雨乞」の祈祷が行われる境内には、人出を見越した屋台が出ているのかもしれません。水槽に浮かべられた色とりどりの水ヨーヨー。その中から「黒」を選んでいるのです。黒がカッコいいと思ったのか、この夜の雰囲気がそれを選ばせたのか。雨の降らない乾ききった空気、赤い旱星。手にした「黒き水ヨーヨー」を叩くと、重い水の音がします。暗く水も匂います。が、雨は降りそうにもありません。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

加美代飴に小さきハンマー山笑う

いたっくうらら

「加美代飴」とは、香川県の金刀比羅宮境内大門内にて売られている飴。ちょっと柚子の香りのする金色の飴ですが、それに添えられているのが「小さきハンマー」。飴を割って食べるための小さな金色の槌です。

下五の季語「山笑う」は、まさに金毘羅宮をふところに抱く春の琴平山でしょうか。幸せの打ち出の小槌みたいな「ハンマー」との取り合わせが楽しい作品です。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

正しさと正しさバナナ折れてゐる

嶋村らぴ

兼題写真からどのようにしてこの句が生まれたのか、読者である私たちは勝手に推測するしかありませんが、往々にして作者自身にもよく分からない展開で、何かがスパークする瞬間に出会うことがあります。人はそれを、創作の妙味と呼ぶのかもしれません。

改めて言うまでもないことですが、「正しさ」とは一つではありません。それぞれの人、それぞれの組織、それぞれの国が、自分たちにとっての「正しさ」を振りかざしますから、当然ながら「正しさ」と「正しさ」は衝突する運命にあるのです。その結果、摩擦が起こり、相手の正しさを攻撃し、戦争ともなり……気が付けば「バナナ」も折れているのです。

季語「バナナ」以外のもので、現実の世界に起こっているこのナンセンスは語り得ない。そんな確信をもっての季語選択に違いないと、確信致します。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

店の子の屋号で呼ばれ夏休み

日々の茶めし

「店の子」が、その店の屋号で呼ばれることはあるでしょう。例えば、私の母の実家は、かつて紺屋(染物屋)を営んでいたようで、私は近所の爺さん婆さんから「紺屋の孫」と呼ばれていました。

「店の子の屋号で呼ばれ」という事実を、俳句として昇華しているのが下五の季語「夏休み」。家を手伝いをよくする子なのでしょうか、あるいは親の言うことを聞かずに遊びまわっている子かもしれません。昭和三十年代の懐かしい光景を見せてもらったような一句でした。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

射的にも負けたラムネがきんきんだ

たーとるQ

「にも」は散文的になりがちな助詞ですが、この句は、当に「にも」しかあり得ないというタイプ。「射的にも負けた」という措辞に含まれるニュアンスを、読者は様々に想像し始めます。

射的以外の遊戯にも負けているのだろうということは勿論、一緒に来ていた彼女は別のヤツに気があるみたいだし、ここんところ人生そのものが全く噛みあってないし……等々。

ラムネが冷えているのは、季語の本意としては文句なしだけど、今の俺にとっては、歯も心も「きんきん」と痛いのだろうな。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

走り根を屋台たくみによけ葭簀

せんかう

割り当てられた所に、屋台を組み立てていくのです。たまたま、大きな「走り根」のある場所が宛がわれたのか。はたまた、毎年の慣れた場所であるのか。「たくみによけ」の後に、出現する「葭簀(よしず)」という季語が絶妙。

たまたま目にした光景かもしれませんが、例えばテントを張るなどの実体験の中で記憶されていた「走り根」が、兼題写真から蘇ってきたのかもしれません。いずれにしても、「葭簀」という季語を見つけ出したことを大いに褒めましょう。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

渡御の灯を浮けて烏帽子の犇めけり

うーみん

作者のコメントによると、「東京都の大國魂神社のくらやみ祭」なのだそうです。「浮け」は、「浮く」に対する他動詞「浮ける」の連用形。 浮かべるという意味になります。

私は、くらやみ祭という行事を見たことありませんが、掲出句が描く光景はありありと脳内に再生されます。

神輿の灯を浮かべているかのように、それを担いでいく烏帽子の群が犇めいているのです。暗闇の中、熱気がひたひたと伝わってくる静かな迫力の一句です。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

鈴落とす雀隠れの濡れてゐる

百瀬一兎

「雀隠れ」とは、草木が伸びてきて雀の体を隠すほどになることをいう春の季語です。上五「鈴落とす」とありますから、若草が伸びている原っぱでしょうか。

ちりんと鳴って草の中に落ちた鈴。何かにつけていた鈴が、うっかり外れてしまったのでしょうか。草隠れに落ちてしまった鈴を探そうとすると、雀隠れの丈となっている若草は「濡れてゐる」のです。雨後でしょうか、朝露の乾かぬ時間でしょうか。落ちてしまった鈴の行方に、心ばかりが揺れています。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき