第33回 俳句deしりとり〈序〉|「ねん」②
始めに
出題の句からしりとりの要領で俳句をつくる尻二字しりとり、はじまりはじまり。
第33回の出題
兼題俳句
落雷の木に落雷を待つ少年 ツナ好
兼題俳句の最後の二音「ねん」の音で始まる俳句を作りましょう。
※「ねん」という音から始まれば、平仮名・片仮名・漢字など、表記は問いません。
捻典にてんたう虫の問ふてをり
加里かり子
捻典のうんこ俳句の小春かな
⑦パパ
ねんてんさんの河馬の句が好き秋の晴
湯屋ゆうや
ねんてんさんの真つ白巻き毛天の川
小川晴よ
ねんてん先生ふはふは秋の夜の動画
水須ぽっぽ
稔典さんうふふ小春の甘納豆
彩汀
稔典先生子らの真中に春の昼
日永田陽光
捻転の卵巣手術日は聖夜
天雅
捻転の卵巣初夏の無影燈
東風 径
捻転や戻す獣医の首を汗
青木りんどう
「拈華」の意検索ならず蚯蚓鳴く
夜汽車
拈華微笑ことばは真実をとほく雪
七瀬ゆきこ
どちらも仏教用語のようですねえ。「拈華」は花をひねること、「拈華微笑(ねんげみしょう)」は言葉を使わず心から心へ伝えること、だそうです。釈迦と弟子の故事から転じて言われるようになった言葉だとか。中七が下五へと接続してると考えれば、拈華微笑のそれに比べてことばはなんて真実を伝えきれないことか……といった感慨でしょうか。「雪」が切々と効いてます。
念仏を唱へる墓の曼珠沙華
喜多輝女
念仏を聞く膝丸し秋の雨
ふじっこ
念仏のゆつくり終はる秋気かな
田原うた
念仏ぶつぶつ幽霊が消えない
十月小萩
念珠の房縮れ宥める秋彼岸
骨の熊猫
念珠弾け飛び木魚へ星流る
ひろ笑い
念珠繰る指の先まで日焼の僧
深山むらさき
「念」の付く小坊主たちの花歌留多
紫黄
「念」の字から始まる句には仏教関係のシチュエーションを想像させるものも多かったですね。「念仏」や「念珠」はその中でもストレートな句材。念仏系では《十月小萩》さんの変な発想へ捻っていく展開好きだなあ。口の中で唱えるような「ぶつぶつ」が内心の焦りや不条理を思わせてなんだか笑える。念珠系では《深山むらさき》さんの指先への焦点の絞り方が一推し。季語がくっきりと映像化されております。
《紫黄》さんは具体的な単語にいくのではなく、発想の一本勝ち。日本昔ばなしみたいだなあ。複数人でわいわいはしゃぐ花歌留多の広がった畳が目に浮かびまする。
念仏鯛の赫く群れたる無月かな
三浦海栗
念仏鯛外道と棄つる盆の海
中岡秀次
念力の匙の小山や秋曇
早霧ふう
念力や苺ミルクの匙ゆがむ
横山雑煮
念力や暗黒面とたんぽぽ面
阿部八富利
念ずれど凡やらボツや盆の月
さく砂月
粘土練る指の先にも水の秋
天弓
粘土とふ欲深きもの秋渇き
あなぐまはる
粘土には娘の指紋冬の夜
深町宏
粘土のコウモリ桃組のハロウィン
坂野ひでこ
粘土のイルカ鰭にさやかなる指紋
帝菜
だれでも幼少期にはきっと遊んだことのある「粘土」。幼稚園や小学校での工作で使ったりしますよね。形作っていくんだけど、思った形にならなかったり、こねてる間に乾いていっちゃったり。《あなぐまはる》さんの句はそんなままならなさの表現として味わい深い。粘土をこねる実感だけでなく作られた物体を描写するのもひとつのやり方。きっちり物体が描写される分、こちらの方が手堅い作りではありましょうか。指紋がぺったり残ってたりするのも幼少期のお約束。
ところで《帝菜》さんの句、これさあ、もしかして名探偵コナンの映画に出てきたやつじゃない? 『漆黒の追跡者』じゃない? 恐ろしくマニアックなコナンクイズ句……オレでなきゃ見逃しちゃうね。
《③へ続く》