第50回「雪の赤れんが庁舎」《地》
評価について
本選句欄は、以下のような評価をとっています。
「並選」…推敲することで「人」以上になる可能性がある句。
「ハシ坊」…ハシ坊くんと一緒に学ぶ。
特に「ハシ坊」の欄では、一句一句にアドバイスを付けております。それらのアドバイスは、初心者から中級者以上まで様々なレベルにわたります。自分の句の評価のみに一喜一憂せず、「ハシ坊」に取り上げられた他者の句の中にこそ、様々な学びがあることを心に留めてください。ここを丁寧に読むことで、学びが十倍になります。
「並選」については、ご自身の力で最後の推敲をしてください。どこかに「人」にランクアップできない理由があります。それを自分の力で見つけ出し、どうすればよいかを考える。それが最も重要な学びです。
安易に添削を求めるだけでは、地力は身につきません。己の頭で考える習慣をつけること。そのためにも「ハシ坊」に掲載される句を我が事として、真摯に読んでいただければと願います。
地
第50回
陳情の雪靴しずむ赤絨毯
高山佳風
「雪靴」というモノに「陳情の」という限定がくっついただけで、それを履いている人の様子や表情までもが見えてきます。役所の床に敷かれた「赤絨毯」に、雪の欠片も落ちていくのでしょう。
数人での「陳情」だろうとは思いますが、「雪靴しずむ」は、まぎれもない己自身の足裏の感触。権威の象徴のような「赤絨毯」、陳情が通るか否かという緊張感。それらが「しずむ」の一語に凝縮されているかのようにも感じます。
串カツを飯に立てたりクリスマス
しろぴー
世間は、クリスマス、クリスマスと喧しいが、自分にとっては何の関わりもない。そう思いつつも、運ばれてきた串カツ定食? の「串カツ」を「飯」の椀のど真ん中に突き立ててみた。そんな場面がありありと想像されます。飯に突き刺された「串カツ」がクリスマスツリーみたいだと思う自分を、なにやってんだ? と笑う自分がそこにいる。「クリスマス」の悲哀を詠んだ句は多々あれど、自嘲と可笑しみとのバランスが絶妙な味わいです。
信号の赤なるひとも雪のなか
髙田祥聖
そこにあるのは「信号」だけです。「信号の赤なるひと」という描写によって、百人いれば百人みなの脳内に全く同じ映像を再生させる。それが描写の力です。
中七「~も」の助詞も的確。これは「信号の赤なるひと」以外の存在を述べ、その一人が作者自身であることも示唆します。更に、下五「雪のなか」という措辞が眼球に映ったとたん、私たちは皆、雪の交差点の信号の前にワープしている。これが、俳句の力なのです。俳句で何ができるかを知っているからこその一句ですね。
童貞聖マリア無原罪の御孕りの祝日卵子きらきら凍結す
島田雪灯
「童貞聖マリア無原罪の御孕りの祝日」までが一つの季語です。私が知っている限り最も音数の多い季語で、二十五音あります。こんな季語を作ること自体が、俳人の酔狂であるよと思うのですが、こんな季語があることを知ると、挑んでみたくなるのも俳人の遊び心です。
が、それにしても「卵子きらきら凍結す」とは、よくもまあ取り合わせたものだと絶句しつつ、感動を覚えました。聖母マリアは処女のまま懐妊したそうですが、凍結された「卵子」はいつどんなタイミングで、母胎に移されるのでしょうか。
宗教と現代医療という素材がこんなカタチで詩として昇華される。俳句でやってはいけないことは何一つないと、いつも言っておりますが、この句がそれを証明してくれているようで、感動致しました。
雪掻きのバニーガールの寡黙なる
立川猫丸
ウサギの耳のヘアバンドをつけた「バニーガール」が、いつもの衣装の上にダウンかなんぞを羽織って「雪掻き」をしているのです。雪を掻かないとお客は店内に入れないのだから、仕事の一部といえば一部。思わぬ雪に見舞われた歌舞伎町界隈ならば慣れないへっぴり腰で、雪国札幌すすきの界隈であれば慣れた手つきで、バニーガールたちは雪掻きの作業を進めます。黒いストッキングがいかにも薄くて、足元がおぼつかなくて。
下五「寡黙なる」は、更に推敲の余地がありそうですが、リアルな体験だからこその句材をうまくまとめています。
本日休診オリオンに悪態
ざぼん子
「本日休診」の札がそこにあるだけなのですが、作者がどんな目的で、どんなふうにしてこの場所に立っているのかが、明確に伝わってきます。
「なんだよ、もう!」と叫びたいような時に限って、「オリオン」は嫌味なほど美しいのです。「悪態」をつかれるオリオン座には、なんの咎もありせんが、モンスタークレーマーとして病院に向かって喚き立てることを思えば、「オリオンに悪態」はよっぽど精神衛生によい。悪態俳句の見本のような一句です。
避難所の毛布ハングル質問票
春野ぷりん
「避難所」では「毛布」が配られているのです。どんな災害かは書かれていませんが、次々に避難所に集まってくる人々の不安げな表情、「毛布」を貰ってホッと一息つく様子が想像されます。
作者の目にとまったのは、避難所の受付に置かれていた「ハングル質問票」。俳句は短いですから、何がどうしてこうなったという経過を述べることには不向きですが、モノを映像として提示することで、言葉以上の内容を伝えることができます。読者の脳内には「ハングル質問票」というモノを通して、この「避難所」の様子がありありと再現されていきます。
教頭の車を盾に雪合戦
小田毬藻
久しぶりに積もった雪。大喜びの子供たちは、休憩時間になると、早速雪玉を作って「雪合戦」を始めます。その中には、「教頭の車を盾に」熱戦を繰り広げる子たちも。実際にそうだったのかもしれませんが、「教頭」という選択が絶妙ですね。
ひょっとすると、職員室の窓から教頭先生ご本人が「おいおい、こらこら」と慌てているのかもしれません。「雪合戦」の句としてのオリジナリティとリアリティを評価したい一句です。
物置に電飾の擬死冬ぬくし
かときち
一読、屋内用クリスマスツリーの「電飾」を思いましたが、上五の「物置に」から、お家丸ごとイルミネーションのような大がかりな「電飾」を想像してもよいのかな、と。
コードやら小さなライトやらが丸められている「電飾」は、一年のほとんど、物置で埃を被っているのでしょう。クリスマスツリーを飾る度に「これ、点くのかな」と思ってしまいますが、あの気分を「電飾の擬死」と表現した点が眼目。下五「冬ぬくし」が、動かしがたい季語として置かれています。
冬晴や展望階に見る母校
全代
先だって、ロケで東京タワーの展望階に上りました。眼下すぐに高校? らしき建物もありました。
が、この句の「展望階に見る母校」は、眼下にあるというよりは、遙かに見晴るかして「あ、あれが私の学校だ」と気付くような、指さしているようなニュアンスではないかと。上五の「冬晴や」という季語と詠嘆が、そう思わせます。美しく冷たく広がる冬の青空です。