第54回「パンダと観覧車」《地》
評価について
本選句欄は、以下のような評価をとっています。
「並選」…推敲することで「人」以上になる可能性がある句。
「ハシ坊」…ハシ坊くんと一緒に学ぶ。
特に「ハシ坊」の欄では、一句一句にアドバイスを付けております。それらのアドバイスは、初心者から中級者以上まで様々なレベルにわたります。自分の句の評価のみに一喜一憂せず、「ハシ坊」に取り上げられた他者の句の中にこそ、様々な学びがあることを心に留めてください。ここを丁寧に読むことで、学びが十倍になります。
「並選」については、ご自身の力で最後の推敲をしてください。どこかに「人」にランクアップできない理由があります。それを自分の力で見つけ出し、どうすればよいかを考える。それが最も重要な学びです。
安易に添削を求めるだけでは、地力は身につきません。己の頭で考える習慣をつけること。そのためにも「ハシ坊」に掲載される句を我が事として、真摯に読んでいただければと願います。

地
第54回
熊猫的理想社会(シュンマオダリィシャンシェホィ)や竹の花
ひでやん
この漢字の並びはなんと読むのだろうと思えば、中国語の発音がルビとして打たれているではありませんか。片仮名のルビ、声にして読んでみて下さい。五七五らしい韻律があります。唐突に付けられた「や」の切れ字が、ホイ! と日本語に戻してくれるような効果もあります。下五の季語「竹の花」は、百二十年に一度しか咲かないといわれる花。なんとまあ、こんな手があったかと楽しませてもらった一句です。
子を棄ててパンダは春に飽きて空
古瀬まさあき
子育てをしないパンダを描いたものはそれなりにありましたが、往々にして時事に終わっておりました。その時事をどうやって、季語を主役にしつつ俳句という十七音詩に昇華させるのか。掲出句は、その壁を悠々と越えています。
「子を棄てて」しまったパンダは、子に飽きてしまったのです。子のことは忘れてしまったほうが、楽なのです。春の太陽は明るいし、草は柔らかくてコロコロ転がると楽しいし、風だってそよそよと優しい。「春」という季節をパンダは全身で満喫しているのです。
が、子を棄ててしまったパンダは、すぐに「春」にも飽きます。さっきまで、何が楽しかったのだろうかと、「空」をぼんやりと見上げる「パンダ」だけがそこにいます。
うららかやパンダの掴むとぼけた木
コンフィ
「パンダ」が木の上で、ぽにゃぽにゃ、くにゃくにゃしているのをニュース映像などで観ますが、「うららか」という季語を具現化した姿だと常々思ってきました。「うららか」と「パンダ」の取り合わせならば、私を含め他の人間でも書けるのではと思いますが、そのパンダが掴んでいるのが「とぼけた木」である、と。ここまではなかなか書けません。「とぼけた木」は、その形状でありつつ、それを好んで掴む「パンダ」という生き物の有り様にも通じます。描かれた可愛い「パンダ」のみならず、「とぼけた木」と書ける作者をも愛してしまった一句です。
帰舎拒否のパンダたるんと糞る日永
江口朔太郎
「帰舎拒否」とカタイ言葉から始まりますが、要は、もっと遊びたい悪戯ざかりの子供パンダなのでしょう。飼育員さんが、なんとか獣舎に戻そうとすると、いきなり「たるん」とウンチをして反抗。腹が立つけど可愛い、というヤツなのでしょう。
「糞る」は「まる」と読んで、排泄するという意味。この読み方もまた、なんだか「パンダ」っぽくって、「日永」っぽいですね。
ぽにゃぽにゃのパンダ木に上げ初掃除
翡翠工房
「ぽにゃぽにゃのパンダ」は子供なのでしょう。抱いてもぽにゃぽにゃ、下に置こうととしてもぽにゃぽにゃしている。このオノマトペがなんといっても秀逸です。
そんなパンダを「木に上げ」とは、木登りの練習? と思ったとたんに出現する季語「初掃除」。年明けて最初のお掃除の日だと分かれば、周囲の様子が一気に立ち上がってきます。季語の勝利ですね。
小手鞠の花やパンダのネグレクト
伊藤映雪
「パンダのネグレクト」という時事的フレーズのインパクトは大きいのですが、ややもすればこの部分の言葉の質量は、様々な季語との取り合わせを拒否しかねません。その局面で、よくぞ「小手鞠の花」をもってきたものです。
パンダの赤ちゃんは、親の大きさと比較すると驚くように小さいものです。ちょっとした風にゆれる小手鞠の花が、パンダの赤ちゃんという存在と響きあいます。ニュースに使われる言葉も、取り合わせ次第では詩となり得ることを証明してくれた作品です。
パンダ見て菜の花摘んで離婚せり
奈良井
この句のように、「~見て~摘んで~せり」と時間経過を綴っていくと、大抵は失敗します。内容を詰め込み過ぎる場合もあれば、冗長な語りになってしまうこともあるからです。
が、この句は見事に成功しました。理由の一つは、並べた動作の取り合わせが佳いこと。「パンダ」を見る、「菜の花」を摘むといういかにも平凡なシアワセ感を描いておいて、「離婚せり」ともってくる構成が功を奏しました。読み終わった瞬間、手にしていた菜の花が萎れていることに気付く。そんな映像までもが見えてくるような一句でした。
ぞうがめのそくどこそ春ほんたうの
海色のの
「ぞうがめ」が餌に向かって歩いている動画を観ました。食べたい! という欲求によって最高スピードを出しているのだろうなとは思いましたが、かなり遅いです。
「ぞうがめのそくど」と平仮名で表現されたゾウガメの速度こそが、「春」の速度であるよ、という一句。しかも、「春ほんたうの」という片言のような押さえが絶妙で、ここに詩が生まれています。
金網にピントこどもの日のパンダ
蜘蛛野澄香
動物園で動物の写真を撮ろうとしているのに、肝心のピントが金網に合ってしまうなんて。当に、家族写真アルアルというやつです。「金網にピント」で映像が切り替わり、「こどもの日のパンダ」と光景を広げる構造が巧いですね。後半で一気に季語が動きだし、季語「こどもの日」を象徴するかのように「パンダ」は愛くるしく動いています。
鬱王めくパンダの前を春日傘
ほしのり
パンダ好きな皆さんには申し訳ありませんが、「鬱王めくパンダ」という表現に唸ってしまいました。共感の呻きです。あの鬱屈とした大きさといい、愚鈍にもみえる動きといい、昏い垂れ目といい、嗚呼パンダは「鬱王」に似ているのだ! と。その檻の前を過ぎていく「春日傘」の明るさが、心理的な明暗ともなっている印象深い作品です。
余談ですが(パンダ好きの皆さんにもう一度謝った上で書きますが)、現在「鬱王」に悩まされている方々に、鬱王に明るくて軽薄な名前をつけてみてはどうでしょう? という提案を常々していますが、パンダたちの「リンリン」とか「ランラン」とか、この手の名前は案外よいラインかもしれないです。そんなヒントを頂いた一句でもありました。