第50回「雪の赤れんが庁舎」《天》
評価について
本選句欄は、以下のような評価をとっています。
「並選」…推敲することで「人」以上になる可能性がある句。
「ハシ坊」…ハシ坊くんと一緒に学ぶ。
特に「ハシ坊」の欄では、一句一句にアドバイスを付けております。それらのアドバイスは、初心者から中級者以上まで様々なレベルにわたります。自分の句の評価のみに一喜一憂せず、「ハシ坊」に取り上げられた他者の句の中にこそ、様々な学びがあることを心に留めてください。ここを丁寧に読むことで、学びが十倍になります。
「並選」については、ご自身の力で最後の推敲をしてください。どこかに「人」にランクアップできない理由があります。それを自分の力で見つけ出し、どうすればよいかを考える。それが最も重要な学びです。
安易に添削を求めるだけでは、地力は身につきません。己の頭で考える習慣をつけること。そのためにも「ハシ坊」に掲載される句を我が事として、真摯に読んでいただければと願います。
天
第50回
裸木に電飾われに疑似家族
にゃん
「裸木」に絡む「電飾」のさまを描いた句は、毎年この季節になると相当数目にします。そういう意味において、前半は類想以外の何物でもないのですが、後半の取り合わせで一気にオリジナリティとリアリティを獲得する。まさに、類想を共感の土台として展開してゆくお手本のような作り方です。
この句の解釈が一筋縄でいかないのは、「疑似家族」という単語の意味をどう受けとめるか、です。それによって、一句は万華鏡のように複雑な表情をみせるのです。
「疑似家族」とは、実際の家族ではない者同士が、家族のような関係を築いている状況を意味します。寂しい「裸木」には美しい「電飾」があり、(本来、家族に恵まれなかった)「われ」には今心温まる「疑似家族」がいる。そのように解釈することも出来れば、実際の家族なのにまるで血が繋がっていないかのような冷たい人間関係に陥っている状況を「疑似家族」と比喩したとも考えられます。(例えば、「仮面夫婦」のような意味合い。)他人の目からすれば、幸せを絵に描いた家族のように見えるかもしれないが、「疑似家族」と呼ぶしかない日常がある。美しく見える電飾も、「裸木」の輪郭をかたちどる虚飾にすぎない。
二つの解釈のその先には、「とはいえ……」というどんでん返しの未来が幾つにも枝分かれしていくような予感もあります。現代社会を切り取ってなお詩として昇華させる技量を褒めつつ、今回の兼題写真と合わせれば「写真俳句」の作品としても鑑賞できる一句です。