写真de俳句の結果発表

第56回「百日紅の名所」《地》

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評価について

本選句欄は、以下のような評価をとっています。

「天」「地」「人」…将来、句集に載せる一句としてキープ。
「並選」…推敲することで「人」以上になる可能性がある句。
「ハシ坊」…ハシ坊くんと一緒に学ぶ。

特に「ハシ坊」の欄では、一句一句にアドバイスを付けております。それらのアドバイスは、初心者から中級者以上まで様々なレベルにわたります。自分の句の評価のみに一喜一憂せず、「ハシ坊」に取り上げられた他者の句の中にこそ、様々な学びがあることを心に留めてください。ここを丁寧に読むことで、学びが十倍になります。

「並選」については、ご自身の力で最後の推敲をしてください。どこかに「人」にランクアップできない理由があります。それを自分の力で見つけ出し、どうすればよいかを考えるそれが最も重要な学びです。

安易に添削を求めるだけでは、地力は身につきません己の頭で考える習慣をつけること。そのためにも「ハシ坊」に掲載される句を我が事として、真摯に読んでいただければと願います。

第56回「百日紅の名所」

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杖置いて肉喰らふ母百日紅

深山ほぼ犬

「杖」を置くという動作と、「肉」を喰らうという動作が並べられているだけなのに、「母」という人物の出現によって、生への強い執着が思われ、その生々しい「母」のありように圧倒される子の立場までもが、ありありと浮かび上がってきました。

下五「百日紅」は、動きがたい季語として、どっしりとずっしりと置かれていて、この迫力に思わず息を呑んだ次第です。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

社畜ねと百日紅囁く夜明け

のなめ

「社畜」とは、会社のいいなりになって長時間労働、低賃金で働き続けている社員。「会社」+「家畜」=「社畜」という造語には、「24時間戦えますか」という栄養ドリンクのキャッチコピーが見え隠れするかのよう。「社畜」という言葉が生まれたのも、バブル景気の頃だったのでしょうか。

まるで「社畜ね」は自嘲ではありますが、街路樹の「百日紅」が囁いているという語り方によって、社畜である自身をもう一人の自分が俯瞰しているような読後感があります。下五「夜明け」という時間が、まさにダメ押しとも絶望ともなって響いていく朝です。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

孤独死の家よと指され百日紅

たじまはる

「孤独死」という言葉が市民権を得るようになった現代。「孤独死」の句もよく目にするようになりました。「孤独死の家よと指され」という措辞が、ここまでのリアリティを持っていることに、痛々しい思いが致します。

「~指され」と切れの無いかたちで下五「百日紅」が出現したとたん、その家の佇まいまでもが見えてくるようで、ハッと胸を衝かれた作品です。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

体育の声や百日紅の孤島

勇緋ゆめゆめ

前半「体育の声や」という措辞だけで、体育の号令や歓声が遠くから聞こえてくることが描けています。「や」の詠嘆も効いていて、このあたりの構成が巧いですね。更に、後半「百日紅の孤島」という詩語によって情景が立ち上がってきます。

今日はお腹が痛いからというタイプの見学ではなく、体育の授業には参加できない病気を抱えているのだろうと思わせるのが、「孤島」の一語です。大きな「百日紅」の木陰がいつもの定位置なのです。「百日紅」が咲き始めて散るまで、長い長い夏を、この「孤島」で過ごす子どもの心情、あるいはそれを見守る大人の思いが、読者の心に一気に流れ込んでくる作品です。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

百鶏の目に三百の落椿

翡翠工房

「百鶏」とありますから、飼育場のゲージの中の鶏を思ったのですが、後半の措辞から、平飼い、あるいは放し飼いに違いないと、読みを修正しました。

この場合の「百」はそのぐらい多いという凡その数の美称。鶏たちが餌を啄む辺りには、「落椿」が「三百」あまりも散乱しているのです。椿の赤い花と、鶏冠の赤の印象が交錯します。

生まれ、卵を産み、やがて廃鶏となって出荷される、その短い生のありようが、一句の背後に見え隠れします。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

カーナビの声が明るい原爆忌

ぜのふるうと

道案内をしてくれる「カーナビ」は、頼もしいものですが、時には融通がきかないヤツだと苛つくこともあります。

なぜか今日は「カーナビの声」が明るく感じられる。それは、今日が「原爆忌」であるという事実との落差からなのでしょうか。「カーナビの声」が、人類の安全な未来を道案内してくれるならば、という思いが心を過ぎったのかもしれません。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

ハローワーク未だ咲いている百日紅

和はん

仕事を探すために「ハローワーク」へ通っているのです。会社の倒産等による失職でしょうか、定年後の再就職かもしれません。

通う道筋でしょうか、構内の木立でしょうか。こんなに通っているのに「百日紅」はずっと咲き続けているのです。「未だ咲いている」という措辞は、百日紅の花のことでありつつ、未だ仕事の見つからない自分へのため息でもあるのでしょう。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

みんな死ぬだけの映画の百日紅

亀野コーラ

アガサ・クリスティーに『そして誰もいなくなった』という推理小説がありますが、この「みんな死ぬだけの映画」とは、どの監督のどんな作品なのでしょう。中七の終わりが「~や」等ではなく、「~の」と繋がっていますから、その映画の中にも「百日紅」が映っていて、作品において重要な意味をもっているのかもしれません。

 「百日紅」を見る度にあの映画を思い出す。そんなかたちでの季語との邂逅もあってよかろうと考えます。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

窯跡の白磁の欠片百日紅

与次郎

「窯跡」ですから、今は使われていない窯場です。窯跡には、陶磁器を作るときに失敗して商品にならないものを捨てる場所があったのだと聞いたことがありますが、そういう「白磁の欠片」なのでしょう。「白磁」の質感と、ほろほろと咲く「百日紅」の質感の対比も鮮やかな作品です。

作者のコメントによると、韓国の利川(イチョン)の窯場を訪ねた時の光景なのだそうです。「白地に日の丸の様な真っ赤な丸が付いたもので美しかった思い出があります」という、その光景も非常に印象的です。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき

容赦なく咲ききるかたち百日紅

そよかぜ

百日といわれるほど長い期間にわたって花をつける「百日紅」を一物仕立てで詠みきるのは、なかなか難しいミッションです。が、次々に咲き次いでいくさまを「容赦なく咲ききるかたち」と、よく把握し、迷いなく断定しましたね。「容赦なく」に対して「咲ききる」と強い複合動詞を配し、更にその「かたち」=「百日紅」という存在であるよ、と言い止めた判断に拍手をおくりましょう。

おうちの中にもタネがいっぱい 夏井いつき